應聖寺とは
寺伝では山号を妙見山とする應聖寺は白雉年間(1300余年前)、天竺の高僧法道仙人によって開基されたと伝わっています。
鎌倉時代、播磨国は有力御家人の梶原景時の所領を経て小山氏の領地となり、應聖寺は代々播磨国守護職の祈願所として発展します。
その後、文永2年(1265年)仲冬、祐運大徳によって中興され、
さらに、南北朝時代の天正5年(1351年)、播磨守護職赤松則祐公の祈願所となり、七堂伽藍を整え再興されました。
その後、江戸時代には、姫路城主のご来駕を仰ぎ、その遺品も伝わる特別な寺格を有する寺院として栄えました。
当寺には、三代将軍徳川家光公の御位牌、並びに二代秀忠公(台徳院),三代家光公(大猷院),四代家綱公(厳有院)の三霊が並祀された御位牌が伝わっており、どちらも葵の御紋が彫り込まれた相当大きな位牌です。また、姫路城主歴代尊霊を祀った位牌も祀られています。
特に、姫路城主酒井公との関係が深かったようで、来山記紙片の他、酒井家二代藩主宗雅公ゆかりの人物、松平不昧公(茶道師匠)、酒井抱一公(実弟)、河合寸翁翁(家老)の遺品や当寺への寄進の品といわれる寺宝も伝わっています。
それらは應聖寺の春秋の特別茶会で公開され、実際に使用されています。
また、本堂並びに書院裏には「名勝應聖寺庭園(江戸初期・県指定文化財)」が広がり、沙羅の季節には、
セッコク、サツキ、キョウカノコ、オカトラノオ、ハンゲショウなど、初夏の花々が咲き乱れます。
初夏の青モミジ・晩秋のモミジの錦を借景に四季の彩りを映す庭園をご覧ください。
縁起
往昔からの古事・伝承に基づくと、当山は天竺の高僧法道仙人によって、白雉年間(650年~654年)に開基されたと伝えられています。近年、寺に伝わる釈迦誕生仏が、白鳳時代(7世紀後半)の仏像と確認され、福崎最古の寺院と判明しました。『播磨国風土記』に記された”高岡の里”にあって、その半世紀も前に、当山が開基されたことになります。
鎌倉時代中期、人皇第八十九代亀山帝の御代文永二年(1265年)11月、祐運大徳によって應聖寺は中興されます。中興の外護者は当時の播磨国守護職小山氏であり、播磨国の中心に位置する守護職管轄地に、自らの知行国安寧のための祈願所として中興されました。
南北朝室町時代には、播磨国の在地領主赤松一族の祈願所として再び繁栄します。当時の様子を『應聖寺縁起』 に尋ねると、「誠に台門の古刹として、往時は堂塔伽藍軒を列ね、寺観の美は法門の指標として、衆庶の膽仰する所なり云々」と伝えており、天台宗門の古刹として、堂塔伽藍の秀麗さにおいて、ひときわ異彩を放っていたことが知られます。更に、当寺は往昔より、神西郡の主格、高岡郷にあり、住職は末社十社を支配する一宮神社の別当職を兼務していました。
およそ、三百年前に始まった一宮神社御宝前での大般若転読会は、春秋二回、近隣寺院出仕のもと、今もなお続けられており、神仏習合の古来の信仰の様子を現在に伝えています。
現在の伽藍は、明治元年落慶、大正十三年改築の本堂及び庫裡、昭和五十四年再建 の当寺奥之院である祈願堂、並びに平成十三年落成の開山堂及び茶室不動庵が整備されています。
名勝應聖寺庭園
本堂と書院の裏手に連なる庭園は、江戸初期の石組をとどめ、池泉観賞式の名園として名高く、
「名勝應聖寺庭園」として県指定文化財に指定されています。
また、当寺は通称「沙羅の寺」として知られ、
毎年6月中旬~7月中旬にはたくさんの沙羅の花が咲き誇り、純白の花弁が應聖寺を彩ります。
関西花の寺第8番札所の應聖寺では、沙羅の花のみならず、一年を通して四季折々の花にであうことができます。
山号「妙見山」
山号「妙見山」についてお話し致します。
御本尊の聖観世音菩薩は、もとは平景清公の念持仏で、当時世に聞こえた霊像であったことから、
それを聞き及んだ南北朝期の播磨守護職赤松則祐公(赤松則村(円心)の三男)が、当寺再興の為に都より遥々奉迎したものと伝えられています。
その妙(たえ)なる霊験殊(こと)に顕著なるゆえに、妙顕山とも妙見山ともいい、当寺の山号の由来となったと伝えられています。
また、應聖寺を赤松一族の祈願所とした発願主の則祐公については、『應聖寺日牌』に、
則祐公の生まれが「應長元辛亥年一月十七日辰ノ時生也」とあり、則祐公祈願所ならではの記述が残っています。